エッセイ

エッセイ

神様に求めましょう

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
(マタイの福音書 7章7~8節)
この言葉は聖書の中に書かれている、イエス・キリストの言われた言葉のひとつです。
これは一つの約束です。この言葉をよく考えてみると、これは本当に素晴らしいものであることがわかります。
「求めなさい。そうすれば与えられます」と書いてありますが、そもそもこのようなことを堂々と言えるのは神様だけです。人が求める者は千差万別です。お金を求める人は多いでしょう。病のいやしを求める人・問題の解決を求める人・幸せを求める人などなど。
この言葉には区分などはないです。
そして、数量の限定もありません。世の中に出回るサービス品の多くは、なくなり次第終了というものがほとんどです。
営利目的でもないです。買い物のようにお金を払って買うのではなく、一方的に与えてくれるものなのです。
さらに、「だれでも」とあります。しばしば「応募資格」というものを目にしますが、その人の良し悪しは一つも関係がないです。年齢も学歴も国籍も関係がないです。ただ、生きている間に求めることだけが条件です。
神様というお方は、人間が求めるものを与えすぎて破綻するようなことはありません。また、悪い動機で求めることについてその悪に加担することもありません。子供が求める小さなことから、大人が求める難しいことに至るまで、愛をもって与えてくださいます。
どこにそんな根拠があるかというと、それはイエス・キリストの十字架にあります。
キリストが十字架にかかって死なれたことは、あなたもご存知のことでしょう。
しかし、多くの方は、キリストがなぜ十字架にかかって死なれたのかを知りません。
このお方が十字架にかかって死なれたのは、私たち人間を罪のさばきから救うための身代わりであったのです。
どの国でも犯罪に対しては、その大きさに従って刑罰が定まっています。人は生きている間に刑務所に入るようなことは、まずありません。
しかし、刑務所に入るほどの大きな罪を犯していなくても、罪を犯していないわけではありません。さらに私たちは、行動には移さなくても、心の中で醜いことを考えます。人の心の闇は本当に深いものです。聖書は、心の中の悪い考えも罪であると教えています。
犯罪に対して刑罰があるように、人生の中で犯した様々な罪に対しても死後に裁きが定まっているのです。
しかし、その裁きを身代わりに受けてくださったお方がいるのです。それがキリストの十字架なのです。キリストは生涯の最後にご自身の命までも与えてくださいました。命までも与えるほどのお方が、それ以外のものを出し惜しみすることなどないのです。
そして、3日目にキリストはよみがえりました。
神であるキリストが、すべての人々に対して無条件で「求めなさい」と言われているのですから、ぜひこのお方にあなたの必要なものを願って、祈ってください。そして、ぜひともあなたご自身の救いを求めてください。
イエス・キリストは必ずかなえてくださいます。