エッセイ

エッセイ

まえぶれ

今私たちの世界で起こっていることは、全く想像もしていなかったことばかりです。
春の行楽シーズンはどこもまばら。飛行機もJRも高速道路もすいています。こんなことになるとは、半年前にだれが想像できたでしょうか。行動自粛を緩めると、第2波・第3波が襲来すると警告されています。「新しい生活様式」と言われても、それが定着するには時間がかかりそうです。
ありとあらゆるところに影響が出ており、この先どうなっていくのか全く先が見通せません。今は小さな子供からご年配の方に至るまで、すべての世代の方の生活に支障が出ています。しかしこれらのことは、この世の終わりに起きる前兆のひとつなのです。
それからイエスは彼らに言われた。「民族は民族に。国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々には疫病と飢饉が起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。」ルカの福音書211011
読者の方の恐怖心をあおるつもりはありません。ただこれらのことは、この世の終わりに起こることとしてあらかじめ聖書に書かれているのです。
私たちの耳は自分にとって都合のいいことはよく聞こえても、都合の悪いことについては聞こえないものです。聖書のことばは私たちにとって決して都合のいいものではありません。ですから聖書の言葉に心を閉ざしたり、ここちよい教えに耳を傾けたりしたくなるものです。
しかし聖書の最初のことばに「初めに神が天と地を創造した。」創世記11
とあるように、神様が天と地(宇宙と地球)を創造されました。どんなものでも造るのは大変ですが、壊すのは簡単です。しかし神様は、ただちに壊すことを望まず、様々な前兆をとおして警告を与え、私たち人間が神様に立ち返ることを望んでいるのです。どうやって神様のもとに返るのかがわからなくなってしまった私たち人間に対して、神様は愛するひとり子をこの世に遣わしてくださいました。この方こそイエス・キリストです。
カタカナの名前は日本人の私たちにとっては、外国の話であって日本人とは接点がないと感じる方が多いと思います。しかし、イエス・キリストの十字架は、その当時のエルサレムにいた群衆のためだけの救いにとどまらず、時を超え、民族を超えて、すべての人々の罪のさばきの身代わりであったのです。そしてキリストは、十字架の上で死なれ墓に葬られ、3日目によみがえられました。イエス・キリストの十字架は、私たちの罪を赦すためであり、その復活は私たちに永遠のいのちと希望を与えるものです。
これから先、予期せぬことが起こることは聖書に書かれてあります。しかし、神様は私たちに対して、救いの手を差し伸べてくださっています。「神が愛ならなぜこんなことが起こるのか」・「この先どうなっていくのか」と不安に思われるなら、ぜひ聖書のことばに耳を傾けてください。聖書にはその解決策も救いも書かれています。どうか聖書をとおして、神様からの救いを受けとる方となってください。