エッセイ

エッセイ

単純です。その3

「単純です その2」にて人は生まれもった罪があることをお話しましたが、今回は「罪に応じたさばきが死後にある」ということについてお話いたします。たいへん申し訳ありませんが、これはきわめて不快な事です。もしこのホームページを読んでほしいと願うなら、このような不快な内容の話は通常なら載せません。なぜこのようなひと受けしないことを書いているのかというと、これはとても重要な事であり、真理を伝えない訳にはいかないからです。
みなさんは死後はどうなるとお考えですか。死んだ後の世界を見たこともないですし、確認のしようがないことですから、わからないと思っている方もいるでしょう。また、無になると考えている方も多いでしょう。聖書は死後にさばきがあることをはっきり示していています。死後は無になるのでしょうか。神の存在を信じない方の多くは、そう考えると思います。でも考えてみてほしいのです。多くの不正をした人も、そうでない人も等しく死後は無になり、同じ結末になるのなら不公平ではないですか。映画や時代劇を見ていて、最後まで悪者が栄える内容だとしたら不快に思うでしょう。ほとんどの場合、私たちは正義が勝つことを望みます。でも自分は正義の側にいるのでしょうか。犯罪に手を染めたこともなく、ごく普通に生きてきたといってもあくまでそれは人間同士の基準であって、神様の目に潔白と言うわけにはいきません。実際の行動だけでなく、人の心の中にある様々な悪い感情、嫉みや憎しみもそれをさばく法律はなくともれっきとした罪です。神様はそれらすべてを正しくさばかれます。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように…」(ヘブル927節)と書かれているとおりです。
なぜ聖書には罪とさばきが繰り返し書かれているのでしょうか。これは神様の愛から来る警告です。愛しているのなら罪を赦せばいいのにと思うかも知れませんが、神様は不正を赦すことはせず、正しくおさばきになります。でも素晴らしいことに聖書には「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ316節)とあります。罪に対してさばきがあることは原則です。これは決して変わりません。しかし神様は驚くべき方法で、罪に対するさばきから私たちを救ってくださいます。どんな方法によってでしょうか。神様は愛するひとり子のイエス・キリストに私たちの罪を全て背負わせて、十字架にかけて裁かれたのです。神様の正義と神様の愛が交錯した所、それがイエス・キリストの十字架なのです。十字架こそ救いの道です。