エッセイ

エッセイ

「心配」

「あすのための心配は無用です。」(マタイの福音書6章34節)
これはキリストの言葉です。
私たちは、様々なことを心配します。個人差はありますが、子供には子供なりの心配があり、学生さんは学生さんなりの、ご婦人にはご婦人なりの様々な心配があるものです。
でも心配したからといって、その心配がなくなるわけでもなく、多くの場合、雪だるまを作るようにどんどん大きくなっていくものです。
そんな私たちに対して、イエス様は「心配は無用」であると言われます。確かに、どんなに心配で心が一杯になっても、何の解決にもならないことはよくわかっています。でも心配してしまう、そんなことがよくあります。心配とは、その問題に対して自分では解決することができないと思えるとき、生じるものだと思います。
人生の中には、どんなに悩んでも解決できない問題というものがたくさんありますが、すべての人に共通する最も深刻な問題とは何でしょうか。それが死です。これほど深刻な問題などありません。「人は生きている以上、必ず死ぬのは仕方ないことだ」という方もいるでしょうが、それで諦めがつくでしょうか。ただはっきりといえることは、人は死に対して全く無力だということです。
でも皆さんが関心を持たれている聖書の中には、死の起源とその解決についてはっきりと書かれています。死は初めからあったものではなく、人間の罪の結果として生じたものです。そして罪を放置したままにしておくとどうなるのでしょうか。
「人間は一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル人への手紙9章27節)
罪の結果として死があり、死ですべてが終わりでなく、死後には罪のさばきがあると書かれています。ですがそんな私たちを救うために、私たちの受けるべき罪のさばきを代わりに受け、十字架の上で死なれ、3日目によみがえって死を打ち破られたお方がいるのです。その方こそイエス・キリストです。
このお方は口先で「あすのための心配は無用です。」と言われたのではなく、ご自分の命までも捨てて救いの道を開いてくださいました。もし、あなたがこのお方を受け入れるなら、罪の赦しと永遠の命が与えられます。どうぞ最も大きな問題から目をそらさず、また自分ひとりの力で解決しようとなさらずに、このお方に救いを求める方となってください。