エッセイ

エッセイ

「罪」と「愛」?

もうかれこれ10年ほど、伝道集会に来てくださっている男性がこんなことを話してくれました。「伝道集会で話される言葉には、専門用語が多くて初めのころは全くわからなかった。」この男性が理解に苦しんだ専門用語とは「罪」と「愛」の二つであったそうです。
 この方の話を聞いていると、なぜ理解に苦しんでこられたかがわかりました。「罪」も「愛」も別に難しい言葉ではないのですが、世間一般に使われている意味と、聖書の中で使われている意味とでは大きな差があるからです。「罪」というと一般的に連想されるのが「犯罪」であり、傷害事件や強盗などの凶悪事件をイメージする方が多いようです。
しかし、聖書にたくさん書かれている「罪」という言葉の意味は、そのような犯罪も当然含みますが、その範囲はものすごく広いものです。私たちは日々の生活の中で悪いことをせずとも、心の中で様々な醜い感情を抱きながら生きていると思います。
「罪」とは、たとえ人が行動を起こさなくても、心の中で悪い感情を抱いた時点でそれは罪であって、聖書が語っている罪の基準は私たちが考えるものよりも非常に厳しく、誰一人としてこの罪と無関係な人はいないのです。「自分は今まで生きてきて、人様にそんな迷惑をかけてきたこともない。」と言われる方はとても多いのですが、それだからといって聖書が語る罪の基準から逃れることはできません。
次に「愛」についてですが、これもその意味に大きな開きがある言葉です。私たちのまわりには愛ということばが乱れていますが、日本語の中にはもともと「愛」という言葉はありませんでした。むかし、英語で「愛」という言葉を日本語に訳そうとした人は、幾日も悩んだ末に「あなたのためなら死んでもいいわ」と訳したという話が残っています。
「愛」というと普通は異性の愛を第一に連想するかと思います。しかし聖書が語っている愛は、男女の愛よりももっと純粋ではるかに強いものです。一般的な愛というのは、相手に求めたり、条件を満たしている者にだけ注がれる限定的なものがほとんどです。子供に対する母親の愛であったとしても、それは「わが子限定」であって、他の子にまで向けられることはほとんどありません。要するに人間の持つ愛というものは、条件つきの愛でしかないのです。
しかし神様の愛はそのようなものと大きく違い、求愛的要素がなく、与え尽くす愛です。人間の愛には必ず条件がつきまといますが、神様の愛には対象外となる人は一人もいないのです。まさに完全な愛であるわけです。
これら二つのことが理解できると、伝道集会で語られている福音に対して理解度が増すと思います。私たちは神様の目から見て、罪人であり、そんな罪人である私たちを神様は心から愛してくださっています。罪のさばきからの救いの道を用意してくださり、その救いの道こそがイエス・キリストの身代わりの十字架なのです。
神様は正しい審判者であるので、罪を犯している人をそのままの状態で受け入れることはできず、「無罪」とすることも絶対できないのです。しかし、神様はそんな私たちを救うためにご自身の一人子イエス・キリストをこの世に遣わし、この方を私たち罪人の身代わりとして十字架の上で罰してくださいました。このイエス・キリストの十字架こそ神の罪に対する厳格な裁きと、罪人に対する神の愛がクロスした唯一の場所なのです。それだからこそ、キリストの十字架を信じ受け入れる者に救いがあるのです。どうか「罪」と「愛」について正しい認識を持たれ、イエス・キリストを信じる方となってください。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」(ヨハネ3章16節)